Thứ Sáu, 3 tháng 8, 2012

原敬:一番エライ首相

ダンディーな原敬
原敬記念館。地元ではハラケイと。2006年

- 25歳で地方分権をとなえた平民宰相-

原敬(はらたかし、1856-1921、65歳)は、今の東大法学部を退学しました。
藩閥風を吹かす薩摩出身の校長の排斥運動に加わったからです。
津軽藩出身の陸羯南(くがかつなん)、福岡藩の福本日南など賊軍呼ばわりされた藩の出身者も同一行動をとりました。

退学後、23歳の時に『露西亜国勢論』をフランス語から翻訳しました。
その後、新聞社に入り、北海道、東北、関東をまわり72回にわたり見聞録を連載しました。
このときすでに地方分権の重要性をとなえました。

「現在はすべて東京中心主義の政治だから、中央と地方の格差が大きくなってしまった。
地方分権しなければ、地方は必ず衰退する。
地方に権限を与えよ」

26歳で外務省に入り、天津に2年、パリに3年赴任しました。

39歳で外務次官となり、病気がちの陸奥大臣に代わって活躍しました。

41歳から4年間『大阪毎日新聞社』の編集責任者、社長として活躍しました。
100本以上の記事を書き、言文一致、漢字減少論をとなえました。

忠義、礼儀作法を尊ぶダンディーなジャーナリストでした。

45歳になると大阪北浜銀行頭取になり、49歳には古川鉱業の副社長(実質は社長)になりました。
このとき古川の寄付で、北大、東北大、九大を開校しました。

<*  古河とドイツのジーメンスが合弁で設立したのが、富士電機です。
古河の「フ」とジーメンスの「ジ」から名付けられました。

44歳の時逓信(ていしん)大臣を兼務しています。

1918年首相になりました。
政党を中心とする内閣をはじめてつくり、藩閥や軍閥の弱体化をはかりました。

教育の充実、地方の振興、アメリカとの関係を重視し、中国との関係改善に努力しました。

開明的な原を無視した日本は軍部の独走で破滅の道を歩みました。

盛岡からの山田線の建設計画がもちあがったとき、「総理はそんな山奥に鉄道を敷いて、山猿でも乗せる気ですか。」との質問を国会で受けたこともありました。

19歳から死の65歳まで日記を書き続けました。
原敬は、この日記の執筆に心血を注ぎました。
この日記は近代日本の政治史を知る上で比類のない資料となっています。

爵位をこばみ続け、爵位をもたないまま首相になった原敬を世間は「平民宰相」とよび歓迎しました。

戊辰戦争によって朝敵の位置に追い込まれた岩手を擁護し、  「1868年の戊申戦役は政権の異同があっただけのことです」と朝敵の汚名をそそぎました。

俳号は「一山」、印章は「一山百文」。
「白河以北一山百文」といいはなった薩長への激越な反感が見られます。

5歳から読み書きや漢学を学びました。
これが原敬の広大なインフラとなりました。
漢学は、英語で言うとギリシャ語、ラテン語にあたります。

1921年(大正10年)、原敬首相は東京駅で暗殺されました。

死後、財産は政友会に寄贈し、自らには何も残さなかった井戸塀政治家でした。

今まででいちばんエライ総理大臣は原敬です。
2番目は吉田茂、3番目は伊藤博文です。

山田線

原敬 【画像】Google

原敬 ウィキペディア

原敬記念館

原敬事典 :   原敬アラカルト

原敬博物館
生家の敷地の中の原敬博物館
原敬の生家
原敬の盛岡市の生家
宝積(ほうじゃく)
「寶積(ほうじゃく)」
「人に尽くして見返りを求めない」との意味を込めました。
右から読みます。

◇                    ◇                    ◇

2006年盛岡ではホテル東日本 盛岡 に投宿しました。
偶然にも、原敬の別邸跡でした。
敷地内に大きな冷蔵庫ほどの圓通神社があります。
圓通とは、真理を悟る智慧の実践のことで、西園寺公望の揮毫(きごう)した額があります。
案内してくださったのは、奇遇にも、教え子・佐々木Aさんでした。
「圓通神社御守」をいただきました。
原敬の「寶積(ほうじゃく)」にならって、みなさまの無病息災を祈念しています。2006年は原敬の生誕150年でした。

◇                    ◇                    ◇
公利追求の原敬をみならえ  (NK2011/9/15)  伊藤之雄



 官僚ではなく、選挙で選ばれた人々が国政に責任を持つとの理念は正しい。問題は、実質的に政治が官僚をコントロールし、より確かな日本の未来を形成し、国民に希望を与えることである。

 旧憲法下ですら、第1次世界大戦後に政友会を率いて本格的な政党内閣の首相となった原敬は、陸軍大臣の人事にまで介入するほど陸・海軍へのコントロールに成功した。また大戦後の国際協調の時代に対応すべく、米・英などとの協調外交路線を定着させ、国際経済競争に対応すべく産業基盤の整備を進めた。

 原は青年期から一貫して、「公利」を追求する成熟して自立した国民が国家を支えるべきだと考え、新聞人・外交官・政治家として活動してきた。そうした大きなビジョンに加え、原は陸・海軍の状況も十分に理解し、そのうえで軍当局と安全保障と財政についての厳しい議論をした。こうした現実的手法で、軍からの信頼も得て、1920年代の軍縮と国際協調の源流をつくった。軍(官僚)を批判するだけでは、コントロールは強められないのである。

【履歴:2006年6月、2012年8月】

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