小沢一郎という人生 (NK2012/8/6)
不信と服従の心理学 論説委員長 芹川洋一
やはり稀(まれ)な政治家である。「国民の生活が第一」を旗あげした小沢一郎代表のことだ。なんど政党を壊しては創ってきたことか。いったい破壊者なのか、創造者なのか。
集まり散じて人が変わるのは世の常とはいえ、側近が信頼を失い、いつの間にか離れていく。一方でチルドレンやガールズといった新たな信奉者があらわれてくる。拒絶と服従が交錯する人間模様がそこにある。
小沢政治の基本は「政治は数、数は力」である。権力をにぎるのが目的のようにみえる。ただ、権力闘争に理念や政策のはっぴをまとうのも忘れない。その深層には何があるのか。小沢一郎という人生を考える。
政治社会学の栗原彬・立教大名誉教授の分析手法を借りながら、2本の補助線を引いてみる。(1)個人のパーソナリティーがどのように形成されていったかが、政治家になってからの行動を左右する(2)個人的な生活史の中から政治スタイルができあがっていく――という生い立ちの曲線だ。
栗原氏によると、パーソナリティーの形成で、まず影響を及ぼすのは母親である。濃密な母子関係が、そとの世界との信頼感につながる。母性の欠落は他者への不信感となりやすい。
次に出てくるのが父親との関係だ。父との接触を通じ、自らを律する能力を学ぶ。父親不在は、わがままで自分の感情を抑える能力に欠け、同時に、父親にいい子であろうとする服従の様式をうえつけやすい、という。
小田甫著『小沢一郎・全人像』によると、父・佐重喜氏は岩手県水沢市(現・奥州市)の出身で、苦学して日大夜間部を卒業し、25歳で弁護士になった。東京市議、府議を経て、1946年、故郷から出馬、衆院議員に初当選する。
42年、東京・下谷で長男として生まれた一郎氏は45年、水沢に疎開する。国会議員になると、父は東京に住むようになり、離ればなれの生活がつづく。
母・みちさんも「東京との往復で、共に過ごす日は少なかった」と『全人像』が指摘するように、母子ともに寂しいものがあったにちがいない。
自著『語る』で「おやじは昔ながらの男で、女房なんか構わない方だった。そのうえ女房に選挙運動までさせた。だから……母親に対する同情という気持ちがものすごく強くて、母の死は余計に悲しかった」と述べているくだりがある。
父の選挙のために母をとられてしまった子どもの切ない思いが伝わってくる。しばしば垣間みえる小沢氏の他者への不信感には、満たされなかった母性が影響していないかどうか。
父親については「幼児期、少年期に他の友達のような父との生活の思い出はほとんどない」と追想しているほどで、父性の欠落がみてとれる。
再び『全人像』によると、中学進学で水沢小から東京教育大(現・筑波大)付属中を受験して失敗、中学3年で東京・文京区立6中に転校し都立小石川高に進学、大学入試で東大、京大を受験し失敗、慶応から日大大学院に入学して司法試験に挑戦……というコースには、自分のような苦労をさせたくない父親の思いがにじんでくるようだ。
それはまた、父の期待にこたえようとする、けなげな息子の姿も映す。他者に自らへの服従を求める根っこはここにあるのだろう。
そして第2の父があらわれ、政治スタイルを学んでいく。「おやじ」と呼んだ田中角栄元首相である。
司法試験の途中で父親が亡くなり、田中幹事長(当時)の門をたたく。実社会の経験がないまま、総選挙に出馬し27歳で初当選。「田中の秘蔵っ子」として、政界エリートになる。
組織のモデルは「一致団結箱弁当」と鉄の結束を誇った田中派である。二重権力で裏から支配する得意のリーダーシップも、闇将軍といわれた元首相ゆずりだ。選挙至上主義も、数の論理もそうだ。
次をつくらないところも田中モデルである。「彼(元首相)の欠点は、どうしても後継者をつくろうとしなかったことだね」(『語る』)と評しているが、それは自らに、はねかえる言葉である。進言したり、忠告したりした人間を遠ざけるのは、自らの地位を脅かしかねない存在への拒否反応といえる。
政治手法で忘れてはならないのが、権力闘争を生き延びるための先手戦略である。自民党竹下派の分裂からはじまって、新生党、新進党、自由党、民主党との合併と、みなそうである。生き残りに先手を打とうとする意識の底には、91年に心臓病で倒れたことがあるのかもしれない。
構想に先見性があったのも事実だ。小泉純一郎首相の構造改革は、もともと小沢氏が『日本改造計画』でかかげた改革の旗だった。2007年の参院選後の自民党との大連立構想も、思えば今回の民主・自民・公明の3党合意の枠組みだ。
では、反消費増税などアンチの旗をかかげたこんどの新党に、先見性はあるだろうか。
不信と服従の様式を持つパーソナリティーのうえに、政治の父のスタイルが乗った特異な政治家。この20年、良くも悪くも日本政治を動かしてきた。現在70歳。裁判もつづく。
人生70古来稀なり。残された時間はそう長くない。
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