日本海海戦の天才参謀・秋山真之 http://goo.gl/VNqzN |
1905年日本海海戦 http://goo.gl/86qAD |
アメリカ留学時の秋山真之 [出所]子規記念博物館 |
秋山真之(さねゆき、1868年 - 1918年、49歳) は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公です。
◇ ◇ ◇
1897年( 明治30年 )、秋山真之は日本公使館付留学生として、ワシントンに派遣されます。
29歳でした。
2年半滞在します。
2年半滞在します。
海軍戦略論の大家マハン大佐を訪れ、必読書などについて教えを請います。
秋山真之は、ワシントンで古今東西の軍事・軍略の膨大な書籍文献を読破します。
「私が1日なまけると、日本がつぶれる」
との心境での猛勉でした。
との心境での猛勉でした。
背後には、自分が国家を背負っているという強烈な使命感がありました。
1898年米西戦争が始まります。
1898年米西戦争が始まります。
秋山真之は、2か月にわたり米海軍の戦いをメキシコ湾で観察する機会を得ます。
捕虜になったスペイン軍の将校からも、詳細を聴取します。
この目撃・体験を論文並みの調査報告書として残しています。
1899年には半年間にわたり米国艦隊の旗艦に乗り込み、名将サムソン長官のかたわらで、艦隊の司令術を学びます。
31歳の時です。
考えられない僥倖です。
「私がおじけづけば、日本が潰れる。」
鬼気迫る切迫感が奇跡を生み出したようです。
◇ ◇ ◇
日露戦争は、5年後の1904年(明治37年)に始まります。
一身に日本を背負った秋山真之は、日本海海戦で有名な電報を打ちました。
<今日は好天です。(出撃可能です。)
しかし、波は高いです。
(したがいまして、小型の艦艇は出撃できません。
主・力・艦・の・み・で・出・撃・し・ま・す!!)
秋山真之は、正岡子規の親友で一時は文学者を志しました。
名文、むべなるかなです。
電文
敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
◇ ◇ ◇
このころの日本の輸出品目は、
生糸、綿織物、石炭、絹織物、銅
でした。
工業製品が何もない国でした。
世界のどの国もロシアが勝つ方にかけました。
日本が勝つと思ってた国は、ありませんでした。
◇ ◇ ◇
秋山真之の猛勉と体験がなかりせば、
日露戦争で、
と言われています。
31歳の時です。
考えられない僥倖です。
「私がおじけづけば、日本が潰れる。」
鬼気迫る切迫感が奇跡を生み出したようです。
◇ ◇ ◇
日露戦争は、5年後の1904年(明治37年)に始まります。
一身に日本を背負った秋山真之は、日本海海戦で有名な電報を打ちました。
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
<今日は好天です。(出撃可能です。)
しかし、波は高いです。
(したがいまして、小型の艦艇は出撃できません。
主・力・艦・の・み・で・出・撃・し・ま・す!!)
秋山真之は、正岡子規の親友で一時は文学者を志しました。
名文、むべなるかなです。
電文
敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
◇ ◇ ◇
このころの日本の輸出品目は、
生糸、綿織物、石炭、絹織物、銅
でした。
工業製品が何もない国でした。
世界のどの国もロシアが勝つ方にかけました。
日本が勝つと思ってた国は、ありませんでした。
◇ ◇ ◇
秋山真之の猛勉と体験がなかりせば、
日露戦争で、
日本は消滅してしまっていたであろう
と言われています。
秋山好古・真之兄弟の生家前にて。 松山市。 2003年3月 |
島田謹二『アメリカにおける秋山真之』
司馬遼太郎『坂の上の雲』
寺島実郎『二十世紀から何を学ぶか』
◇ ◇ ◇
<天国の秋山真之>
「日本は資源小国ではない。
資源は地下にではなく、
気概のある国民有志の頭脳のなかにある。」
司馬遼太郎『坂の上の雲』
寺島実郎『二十世紀から何を学ぶか』
◇ ◇ ◇
<天国の秋山真之>
「日本は資源小国ではない。
資源は地下にではなく、
気概のある国民有志の頭脳のなかにある。」
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