杉原千畝(ちうね) http://goo.gl/VZxrF |
http://goo.gl/3oIMF |
独ソ不可侵条約(1939年)によってリトアニアは、ヒトラーからスターリンへプレゼントされました。
このころユダヤ人の大量虐殺が始まっており、リトアニア在住のユダヤ人は、国外への脱出を切望していました。
たいがいの外国領事館は、リトアニアから撤退していました。
日本の領事館は業務を続けていた。
しかし当時の日本は、ドイツと軍事同盟を結んでおり、ユダヤ人へのビザの発給をしてはなリませんでした。
杉原千畝(ちうね)領事は、本国の訓令に反して、人道的立場からビザを発給し6000人ものユダヤ人を救いました。
しかし、杉原領事は、訓令違反のかどで免職となりました。
ソ連が解体し、リトアニアが独立すると、杉原千畝の快挙を記念したスギハラ通りができ、またイスラエル政府は、杉原氏を顕彰しました。
こうしてナチスヒットラーに抵抗した杉原千畝(ちうね)の名誉回復が、日本では46年後の1991年になってやっとおこなわれました。
外務省は杉原千畝の遺族に謝罪しました。
しかもそれは外圧によってでした。
ソ連が解体することがなければ、杉原千畝の名誉回復はなされなかったでしょう。
日本の大きな組織の中では、傍流を歩く人は、このように無視され続けることがよくあリます。
【cf.】小室直樹 『日米の悲劇』、光文社
◇ ◆ ◇
ニシェリ(B. Gehashra Nishri)はイスラエルの宗教大臣になりました。
レオ・メラッドは、少年の頃家族とともに日本を経て、アメリカにわたりました。
シカゴの商品取引所を世界有数の証券取引所に育て上げました。
杉原千畝記念館
ロシアにおけるユダヤ人迫害 『屋根の上のバイオリン弾き』
杉原千畝 【20】
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