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日本精神の理解者、体現者 |
日本精神の理解者、体現者である李登輝の読書歴をご紹介します。
いまの日本は、このような骨太の気骨のある知識人を求めています。
<* 李登輝は、堂々と尖閣列島は日本のものであると主張しています。>
◇ ◇ ◇
李登輝は、台湾の中学生の時すでに鈴木大拙を読み、『臨済録』(臨済の言行録)をひもとき人生の指針としていました。
さらに
『漱石全集』、
阿部次郎『三太郎の日記』、
倉田百三『出家とその弟子』、
『古事記』、
『玉勝間』、
『源氏物語』、
『枕草子』、
『平家物語』、
の愛読者でもありました。
1940年李登輝は台北高校に入学しました。
1学級40名の中に台湾人は、4~5人のみでした。
英語、ドイツ語、バイオリン、剣道をよくしました。
のちに博学、多趣味の総統といわれるのも、全教科型の勉強を続けたことによることが大きかったようです。
特に剣道で、「忍耐、正確、迅速」を体得したことがその後の人生に大きな影響を与えました。
高校時代の愛読書は、
西田幾太郎『善の研究』、
和辻哲郎『風土』、
中野好夫『アラビアのロレンス』、
アインシュタイン『物理学はいかにして生まれたか』、
ゲーテ『ファウスト』、
『若きウェルテルの悩み』
などで、岩波文庫だけで700冊以上も所有していました。
もちろん中国の文学と思想に関する書も読破していた。
1942年8月台北高校を繰り上げ卒業し、同年10月京都大学農学部農業経済学科に入学しました。
農業経済をめざすようになったのは、農村の小地主のせがれに生まれ、早くから農業問題の矛盾に疑問を抱いていたからであり、また高校時代の若い日本人の先生の影響だといわれています。
京大の卒業論文は、『台湾の農業労働問題の研究』でした。
京大時代は社会主義関係の書物を読みふけリました。
『資本論』も繰り返し読みました。
ただ、ヨーロッパのマルクス主義者のアジア停滞史観には疑問を感じました。
その後も日本語の書物には目を通しており、中村雄二郎の著作はほとんど読了し、後年『哲学の現在』は中国語にみずから翻訳しました。
西田幾太郎も座右に置いています。(『朝日新聞』1999年2月17日)
「私は、いまだに一生懸命に勉強を続けているが、先に述べたように一番多く読むのが日本の書籍なのである。
それはなぜかといえば、日本には非常な深みがあり、それが本の中に集約されているからだ。
アメリカの本をもっと読んでいいと思うのだが、私はどうしても日本の本を読書の中心に据えている。」(李登輝、『台湾の主張』1999年)
左は兄、日本兵としてフィリピンで戦死。http://goo.gl/XpSWT |
1944年、日本で陸軍に入隊後、台湾で訓練を受けるために台湾行きの船に乗船するはずのところを仲間と共に見逃してしまいました。
その船は米軍に撃沈されました。
陸軍予備役士官教育を受けるため、再び台湾から千葉県に送られ、陸軍少尉として敗戦を迎えます。
このとき、22歳の李登輝は、他の台湾人と同様日本人から中華民国人となりました。
1946年、台湾に戻り、台湾大学農学部農業経済学科3年に編入しました。
当時の台湾は、日本の法治時代から国民党の無法時代に移ったばかりでした。
国民党軍は台湾で政権をとったばかりで、兵士や官吏の無法貪欲が横溢し、社会は混乱、治安は悪化の一途をたどっていました。
李登輝、沖縄での講演 【1:28】2008年
台湾年表、李登輝年表
李登輝と台湾の民主化 (35000字)
<* 李登輝、リークアンユー、ともにハッカ(客家、中国のユダヤ人)です。>
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