第1章 西欧、清、日本統治下の台湾
第2章 国民党時代の台湾
第3章 李登輝の台湾
1 李登輝、総統に
1988年1月、報禁(新聞新規発行禁止)が解除された。これにより、日刊新聞の新規発行が認められるようになった。戒厳令解除後のメディアに対する最初の規制緩和措置である。これまでは、『聯合報』『中国時報』の政府系新聞が独占状態であった。
1988年1月13日は多くの台湾人にとって、忘れられない日となった。それは、蒋経国が死去した日としてではなく、台湾人が総統になった日としてである。蒋経国は死去に当たり、後継者の指名はしておらず、党・政・軍・特(国民党・政府・軍部・特務機関)の4首脳が協議して、李登輝を選んだのであった。
党・政・軍・特の4首脳は、規定に従って、やむなく、李登輝を総統に指名したもののこれら蒋介石、蒋経国子飼いの実力4首脳および国民党上層部は、李登輝が国民党主席に就任することには強い拒否反応を示した。外省人が中心の国民党は、大陸中国の共産党に似た組織で、国民党主席は総統より上位にあるNo.1の地位を占め、人事権を一手に掌握するからであった。国民党上層部は李登輝を「ロボット総統」として操る目算であった。
しかし、「李登輝時代」の流れを止めることはできず、紆余曲折を経ながらも、李登輝は「絶対多数の台湾人の指示と期待を背景に着々と地歩を固め、巧妙な手腕で権力の掌握に努める一方、民主化を強力に推進し、一党独裁の国民党の党首でありながら、民主主義の基本である政党政治を実現させたのである。」(伊藤、1996a、p.237)
李登輝は総統就任半年後に党主席に選出された。その間、民主化の第1歩として政治犯の一部を減刑釈放した。1988年といえばソウルオリンピックの年であり、日本のメディアは、日本を世界で一番理解してくれる隣人の国のこれら一連の重要事を等閑無視した。この年から、台湾は、資本の輸出国、高所得国家となる。
1989年1月、人民団体組織法が採択された。これは、政党の結成を合法化するもので、政党の誕生があいつぐようになった。6月4日北京で天安門事件がおこり、、この年の後半には東ヨーロッパの共産党独裁体制があいついで崩壊した。東ヨーロッパの崩壊は、日本では社会主義の崩壊ととられたが、台湾では独裁国家の崩壊と受け止められた。これは国民“共産独裁”党にとっても大きな衝撃で、逆に李登輝の「国民党の利益より国家の利益を」重視する政治改革・民主化路線には追い風となった。李登輝は政治目標として、民主化の他に、国際社会への復帰、中国との敵対関係の解消、中国の武力侵攻に備えての防衛力の整備を掲げていた。
2 李登輝、総統に再選
1990年3月、李登輝は第8期総統に再選された。この間、外省人の長老を中心とした保守派は激しく抵抗した。この時には主な新聞や地上波テレビは、反李登輝であった。主なメディアの幹部は大部分が外省人を中心とする軍や公務員の子弟で、依然として党と蒋介石・経国父子に特殊な感情を抱いていたからだ。さらに政治の台湾化の脅威と不安感が、李登輝総統に非難の矛先を向けさせた。こうして、主流派と反主流派の対立が次第に表面化、激化していくようになる。
同1990年3月、学生たちが“万年”議会の解散、政治改革などの民主化を要求する座り込み、ハンストをおこなった。万年議会とは、1947年、1948年に中国全土から合法的に選出された国会議員からなる議会である。万年議会は自分たちが中国を代表するもので中国共産党の中共政権は違法政権とする。国民党政府にとっては、中国全土から合法的に選出された議員がいなくなれば、みずからの正統性を失うために、彼ら終身議員に特権を与え優遇してきた。中国大陸でで改選選挙をおこなうこともできず、さりとて台湾でおこなえば中国全体を含むことにならないので、40年間以上も改選をおこなってこなかった。彼ら“終身老賊”議員は、李登輝の民主化推進は、長年の特権をうばい、みずからの地位をおびやかすものなので、李登輝つぶしに必死となった。
1991年3月、李登輝は、反主流派反発の中、総統府で2・28事件の遺族代表と会見した。5月、政府は中国政府、政権を敵視した「動員戡乱時期」の終了と「動員戡乱時期臨時条款」の廃止を宣言する。李登輝の中国政府との和解政策の第1歩である。
7月、政府は李総統の任期にあわせて「国家建設6ヶ年計画」を開始した。この計画は、高度成長によってもたらされた交通、環境汚染、治安、文化・レジャー施設不足、勤労倫理喪失などの社会的問題を解決することを最大の目標としている。予算3000億ドルで、国民生活の質的な向上の他に、国民所得の引き上げ、産業基盤の強化、台湾各地域の均衡的な発展も射程に入れている。「国家建設6ヶ年計画」の終了時には、台湾はアジアNIESのリーダーから、経済先進国の仲間入りを果たすことになる。この年、各地に民進党系のケーブルテレビ民主台が誕生した。しかし、新聞、テレビなどのマスコミは、依然反主流派系、反李登輝であった。
同1991年9月、李登輝総統は、戒厳令時代には考えられなかったことであるが台湾人政治家を公邸に招待した。10月、民進党が、台湾独立を党綱領にすえ、内外に大きな衝撃を与えた。同10月、李登輝は、「野党の存在は必要」と語った。まさにその通りで、民進党は李登輝を党派に関係なく、支えることが多かった。12月、40年以上も改選のなかった700人ほどの平均年齢80歳にも届く万年議員の退職がようやく実現し、李登輝のめざす政治改革の大きな障害が除去された。
3 李登輝、2・28事件45周年行事に出席
1992年2月、2・28事件の45周年記念音楽会に李登輝は妻同伴で出席した。2・28事件は、外省人の最大の犯罪であり、外省人特権層の恥部を暴くものであった。5月、刑法第100条が改正された。この改正により、思想犯、陰謀罪は成立しなくなり、関係政治犯も釈放された。言論の自由へ大きく踏み出すことになった。
7月、民進党主席の許信良と総統府で会談した。これは、一党独裁に親しんできた国民党反主流派には、通敵行為であり衝撃を与えた。8月、改正国家安全法が施行され、帰国禁止者のブラックリストが大幅解除された。また、これがため「我々70代の人間は、夜にろくろく寝たことがなかった」(李登輝)警備総司令部が廃止された。警備総司令部は戒厳司令部であり、強権と圧制の代名詞であった。
1992年12月には、40年以上ぶりに立法委員選挙がおこなわれ、国民党政権は台湾で初めて選挙の洗礼を受け台湾での正統性を獲得した。国民“共産”党もここに晴れて台湾国民“民主”党に生まれ変わることができた。李登輝なかりせば、国民党のこのような「新装開店」はあり得なかったであろうし、国民党が政権を維持し続けられたかは疑問である。しかし、国民の、時代の要請にしたがって、李登輝が民主化を進めれば進めるほど、外省人特権層は既得権益を奪われていくことになり、李登輝を国民党の簒奪者ととるようになっていく。反主流派代表格の行政院長 柏村は、公然と李登輝に反旗をひるがえすようになった。
国民党は国民党財閥といわれるほど、金融、製造、貿易、通信、航空、テレビ、ラジオ、出版など多種多様の公営企業を経営している。李登輝は、これら企業の株式の公開をおこなっていく意向である。しかし、反主流派また主流派が、共に根強い抵抗を見せているが、株式公開なしには台湾の真の民主化はありえない。
1993年、この年から本籍規定が戸籍から削除された。これにより身分証から祖先の籍を記す「籍貫」項目がなくなり、台湾生まれであれば本省人と外省人の区別がつかないようになった。これは、本省人と外省人の対立感情の融和策で李登輝の強い意向によるものである。
同年2月、李登輝は軍事クーデターの広まる中、行政院長(首相)を赫柏村から台湾省政府主席の連戦にかえた。これに対して、国民党系が反対デモ隊をおこなったが、一連のデモに対して、知識人は集会を開き国民党反主流派の行動は、台湾人と外省人の反目を助長するだけのファシスト的反社会行動であると位置づけた。連戦行政院長の誕生で、李登輝は党・政・軍・特のすべてを掌握したことになる。
連戦は、李登輝の腹心で、1936年狭西省生まれの本省人である。祖父は台湾史の古典『台湾通史』の著者連横、父は内政部長の連震東である。台湾大学政治学科を経て、シカゴ大学で政治学博士を取得した。台湾大学で教鞭をとったあと、交通部長、行政院副院長(副首相)、外交部長、台湾省主席、行政院長(首相)を歴任する。1996年の初の民選総統選挙では、副総統候補で当選した。名家、高学歴、富豪で妻が元ミスチャイナという庶民離れした経歴の持ち主である。2000年の総統選挙に国民党から出馬する。
2000年の副総統選挙にはショウ(桑原:漢字に訂正→クサカンムリ+粛)(しょう)万長が出馬し、総統候補の連戦とコンビを組むことになる。ショウ(桑原:漢字に訂正→クサカンムリ+粛)万長は1939年生まれの内省人である。政治大学を卒業後、国際貿易局長、経済部長、経済建設委員会主任委員と経済官僚の道を進み、APECには李登輝総統の代理として出席した。1995年には、立法委員選挙に出馬当選した。
4 台湾と韓国
ともあれ、こうして、李登輝は、外省人中心の国民党を、台湾国民の国民党に変えるという「静かなる革命」を、韓国とは対照的に、ねばり強く続けていく。
「李登輝政治の、ことに民主化の推進を見るとき、韓国の金泳三大統領の政治が好対照であろう。李登輝の民主化推進は文字どおりの「無血革命」であり、蒋介石・蒋経国二人の総統の悪政を糾弾することなく、前政権の負の遺産をも背負いつつ、漸進的な改革をめざす「温和な改革」そのものである。金泳三は前政権の二人の大統領までを裁判にかけ、囚人としての姿を国民の前にさらすなど、「民主化革命」の観がある。
(伊藤潔、1996a、p.238.)
台湾と韓国は、何かにつけ、比較されることが多い。以下は、在日台湾人と在日朝鮮人についての一考察である。
スポーツ界でも芸能界でも多くの韓国人、台湾人が日本で活躍しているが、韓国人の場合は自己のアイデンティティを隠すのに対し、台湾人の場合は堂々とそれを前面に押し出し、日本社会に受け入れられているという点を指摘した。その上で野球の張本勲選手と王貞治選手の伝記映画がそれぞれ韓国と台湾で少年向けに製作されたことを紹介した。
それによると、王選手の映画は、王選手が少年時代に東京の下町で周囲から親しまれ、野球が上手かったことからお巡りさんがファンクラブの会長になり、息子をラーメン屋の跡継ぎにしようとしていた父親を、周囲の人々が説得して王少年がますます野球に磨きをかけ、そして日本のプロ野球を代表する名選手になるという、見ていて非常に楽しい映画であった。一方、張本選手の映画は、在日であるため高校野球にも出られず、恋人にも逃げられ、差別という苦労を嘗め尽くしながら日本プロ野球界で成功するという立身出世物語であった。ちなみに映画の題名は、王選手のが「感恩歳月」で、張本選手のが日訳すれば「張り裂けんばかりのこの胸」であった。
報告者は、こうした映画を作成するところにも、台湾と韓国の日本に対する見方の相違が見て取れると述べる。なるほど台湾の「哈日族」が日本のマスコミでもときおり紹介されるが、台湾では若い世代にも日本に親しみと親近感を持ってくれる人々の多いのは、こうした社会背景があったればこそのことであろう。日本文学をとおし、台湾の「哈日族」がさらに底の深いものになってくれるとともに、日本でもレベルの高い「哈台族」が多く生まれることが期待されてならない。
(喜安幸夫、1999.)
5 李登輝、党主席に再選
同1993年2月、李登輝ははじめて台湾の国連復帰に言及した。このことは、台湾が中国と共に国連の1員になること、つまり2国家を認めることになり、中国政府と国民党反主流派の反発を招いた。このように、共に1党独裁体質の中国政府と国民党反主流派の言動は、反李登輝に関して軌を一にすることが多くなっていく。3月、2・28事件賠償条例が採択された。これも李登輝の強い意向で採択されたもので、反主流派には苦々しいことだった。
同年8月、国民党のなかの外省人反主流派、戒厳令下で特権を享受した外省人特権層が中国新党を結成した。中国新党は別名「反李登輝党」といわれるほど李登輝政治にことごとく反対する。
(中国新党は)李登輝を台湾独立の推進者とすることで、中国政府と同調もしている。かつて、徹底した反共を標榜した中国新党と中国共産党政府の連係プレーこそが、近頃の台湾政治の混乱の主要な原因なのである。…このように中国政府の威を借り、支援を受ける外省人勢力への対応は、李登輝の総統在任中はもとより、その後継者にとっても難しい課題である。
(伊藤潔、1996a、237.)
同8月、李登輝は、党主席に再選され、ここに 李登輝体制が確立した。11月、李登輝は「国民党政権も外来政権である」と発言し、反主流派の猛烈な反発を受けた。同11月、日本語放送が全面解禁となった。12月、連戦行政院長は、南向政策の一環としてシンガポール、マレーシアを訪問した。南向政策は過熱化している中国投資を東南アジア投資へと軌道修正をはかるもので、東南アジア諸国からは歓迎された。この頃の台湾の一人あたりの国民所得は10000ドル以上であるが、中国は400ドルにすぎない。
1994年1月、連戦行政院長は、現実外交促進のため中南米4カ国を歴訪した。2月、李登輝は、中国の批判をものとモーゼず、フィリピン、インドネシア、タイの3カ国を訪問し、台湾の投資を促進した。3月、中国浙江省で千島湖事件がおこった。24名の台湾人旅行者を乗せた観光船が千島湖で襲われ、全員が船内で焼死体で発見された事件である。中国当局が、現場検証、現場の撮影、遺体の引き渡しを拒み、遺体を現地で荼毘に付したことから、台湾側はこれは、強盗、放火、殺人、遺体遺棄事件と断定した。台湾のマスコミは、蹂躙されたのは24人の台湾人だけでなく2200万の台湾人の尊厳だ、と怒りをあらわにし、李登輝も中国当局のやりかたは、土匪と同様だと非難し、王朝時代から現在に至るまで中国国民には自由な意志など存在せず、中国は文明国家でない、と述べた。
6 台湾の歴史、地理を知らされない学生
同1994年4月、李登輝は、台湾人には台湾を教える必要があると語った。事実、台湾の歴史、地理を台湾人は驚くほど知らない。大陸全体が中華民国であるので大陸の歴史、地理ばかりおしえられるからだ。台湾は中国のほんの1部にすぎず、台湾には歴史的、文化的独自性はないものとされた。台湾の独自性を認めると、国民党が台湾を統治する論理的根拠がなくなるからである。
筆者が1997年に購入した『新無敵 國中 本國地理図表全集』(翰林出版)をひもといても、それは中国地図帳そのもので、台湾についての詳細は描かれてない。一般に台湾の学生は、自分が行ったことがない台湾の地名は知らない。筆者(桑原)は20年来、台北にいくつ区があるか、とたずねているが知っている大学院生に出会ったことがない。
上述の地図帳では、モンゴルも中華民国領土のままになっている。北朝鮮は韓国領土になっている。沖縄もなく、琉球群島と記されているだけである。ここでは沖縄はにほんのりょうどになっていない。南沙群島は自国領に含めている。
また、北京も存在しない。あるのは「北平」である。首都は南京になっている。この中国地図は中華民国が中国大陸に存在した半世紀前の世界を踏襲しており、台湾人学生はこれをおしえられているのだ。筆者は、日本人学生諸君を台北郊外の「小人国」というテーマパークに案内したことがある。中国地図のミニチュアのまえで「台湾では、中国の首都は南京です。標準中国語は北京語とはいいません。標準中国語は、台湾では「国語」といいます。ここ台湾では、中国人とは大陸の人で、自分たちは台湾人と思っているのでことば遣いに配慮してください」と説明したが、これらの事実を知っている日本人は少ない。
7 李登輝、台湾人の悲哀を語る
1994年4月、司馬遼太郎と対談し、台湾人に生まれた悲哀を語った。この対談は大きな反響を呼び台湾でも中国でも全訳され、反主流派と中国政府をいたく刺激した。中国では政治「反」学習用のテキストとしても配布された。このときの語録を次に掲げる。
・台湾は、台湾人のものでなければいけません。
・北京が大中華帝国をつくろうとしたら、アジアは大変なことになります。
・学校で、台湾のことを教えず、大陸のことばかり教えるのはばかげた教育です。
・私は率先して、台湾語で話します。
・いままでの台湾の権力を握ってきたのは、外来政権です。国民党にしても外来政権です。
・かつて我々70代の人間は、夜にろくろく寝たことがありませんでした。
・台湾の民主化に北京は頭を痛めています。民主化が進めば、国民党と共産党の話し合いで国を決めていくことができなくなるからです。
・鉄砲一つもたない、握り拳も弱い、国民党のなかでグループももたない私がここまでやってこられたのは、心の中の人民の声がささえてくれるからです。
・(台湾は新しい時代に出発しました。)モーゼも人民もこれからが大変です。
(司馬、pp.372~393)
1994年5月、中米とアフリカ4カ国を歴訪した。李登輝が強行軍の外遊を続けるのは、外向的な孤立を打破し、国際社会で台湾をアピールするためである。このとき、ハワイで入国問題がおこった。李登輝は、米国に入国する機会を得るために、あえてハワイで給油する行程をとった。しかし、中国政府の圧力のため、ハワイ軍用空港での機内待機という屈辱的処遇を受けた。これに米国議会、世論は激昂し、議会は台湾の国連加盟支持などあいついで台湾寄りの決議案、台湾問題に関する改正案を採択したり、有力者の談話、訪台などで台湾をサポートした。
9月、李登輝の広島アジア大会出席問題がおこった。結局、中国政府の日本政府に対する圧力で李登輝の訪日はならなかった。李登輝は「訪日の決定権はどうやら北京にあるようだ」と語ったが、李登輝の出席表明は、日本政府の弱腰を承知の上で、台湾を国際社会にアピールし、日本とのいびつな関係改善をめざすためであった。しかし、アメリカとは違って日本のマスコミの反応には見るべきものはなかった。
12月、民進党の陳水扁が台北市長に当選した。首都台北に民進党の市長が誕生したことは、画期的なことである。陳水扁は、外省人特権層が長期にわたり不法居住している官邸、官舎の回収に着手した。これを、反主流派は、これは李登輝のさしがねだととらえ猛反発した。同12月、李登輝は『経営大台湾』を刊行した。李登輝の行政業績と政治理念がうかがえる500頁以上の大著で、現在まで23万部を発行している。
1995年1月、「台湾をアジア太平洋オペレーション・センターに発展させる計画」が閣議決定される。これは、李登輝が総統選挙に向けた公約でもあった。これは、大幅な規制緩和のことで、台湾の市場を自由化し、行政を簡素化することを目的としている。その他、電信の経営部門の民営化、資本の輸出入の自由化、海運・空運の能率向上も含まれ、これにより台湾をアジア太平洋経済のハブにしようとするものである。
2月、台北新公園で2.28事件の慰霊碑落成式があり、李登輝は関係者に謝罪した。2.28事件は外省人と内省人の省籍矛盾の原点であり、これをさけては両者の融和はあり得ないからである。しかし、反主流派は慰霊碑の建立にも謝罪にも反発した。国民党政権の犯罪を認めることになるからであった。
8 李登輝、コーネル大を訪問
同1995年6月に李登輝は、「月着陸と同じほど難しかった」米国のコーネル大学を訪問し、講演した。4000人の観衆と300人の報道陣の前で、台湾人がいいたかったすべてを言い尽くし、台湾を国際社会に強烈にアピールし、台湾の国際組織への復帰に理解と協力を求めた。この訪問の大成功に中国政府は猛烈に反発し、李登輝を米国の政府の傀儡と糾弾した。しかし、かえって中国の過剰反応は、各国のマスコミの関心を喚起し台湾の存在をアピールすることになった。7月と8月に中国は、台湾海域北方で台湾攻撃のミサイル射撃演習を、10月と11月にも台湾上陸を想定した3軍の合同演習を福建省近海でおこなった。
9月、李登輝のAPEC大阪会議出席問題がおこった。ここでもまた、中国政府の無原則に盲従し、中国の属国状態に甘んじる日本政府の弱腰がうきぼりになった。12月、第3期立法委員選挙で、国民党は過半数を制した。この選挙では、国民党の過半数割れにより李登輝の総統再選をはばまんとして、新党と反主流派が共同作戦をとり、また民進党も同様の作戦をとった。しかし李登輝の国民党は過半数を制することができた。
9 李登輝、初代民選総統に
1996年3月、李登輝が初代民選総統に選ばれた。国民が総統を直接選んだのは、漢民族国家で最初のことであった。後世の史家は、台湾はこのとき、中華民国から台湾国へ移行したと記すであろう。イギリスから独立を獲得したアメリカになぞらえれば、李登輝は台湾のワシントンである。
選挙期間中、中国は李登輝の支持率低下をねらい、台湾近海で、ミサイルを試射、駆逐艦に戦闘機を交えた実弾演習を強行した。アメリカも空母2隻を派遣、戦闘機の発着訓練をおこなった。台湾がアメリカを頼もしく思うのは、このようなアメリカの迅速果敢な行動である。このような折、「台湾はアメリカには頼むが日本には頼まない。」中台問題についても日本の仲介を好まない。「これは一面では日本の外交経験の限界、あるいは外交信頼性の限界だと思う。日本は戦後、国際政治関係の中で調停役を買って出てうまくいったという実績、経験はあまりない。…。日本と台湾は経済的には非常に密接な関係があるが、政治的な信頼関係はない。」(と(桑原:漢字に訂正→ニスイ+余)照彦、1995、p.206)
ところで、この総統選は、一般市民の小競り合い、数百人単位のタクシーの運転手の乱闘、ヤクザの銃弾抗争など島全体を緊張と興奮に包んだものであった。結果は李登輝・連戦組は54%、民進党の彭明敏組は21%、新党の林洋港・柏村組は15%を獲得した。
この選挙では、国民党から李登輝、民進党から彭明敏、無所属の林洋港など4人が出馬した。林洋港は、台北市長、台湾省政府主席を李登輝より早く経験した李登輝の先輩格の本省人であるが、蒋経国時代に頭角をあらわしすぎ、警戒心をもたれ、後継者になる道は李登輝に譲った。林洋港は、安全保障の観点からの中国との統一派である。
これら3人の立候補者は、日本語が母語同様の元日本人であるために、この選挙は「皇民選挙」とも揶揄された。しかし、日本のマスコミはこのことに無関心であった。李登輝が「静かなる革命」をおこなえるのも、外省人支配の幕引きから李登輝へのバトンタッチにキーマンとなった林洋港、さらには彭明敏ら民進党などの台湾独立派の存在によることが大きいことを忘れてはなるまい。
10 言論自由の時代へ
1996年8月、138局のケーブルテレビ局が認可された。これにより、台湾は言論統制時代から一気に言論自由の時代に進んだ。
1997年6月、非国民党系の地上波テレビ局が開局した。李登輝の狙いは、台湾のテレビを「国民党のテレビ」から、「台湾のテレビ」に変えることにある。
1997年9月の新学期から、中学で「認識台湾」(台湾を知る)という教科がはじまった。李登輝が強く主張していたもので、初めて2・28事件もとりあげられた。先述のごとく、それまで台湾の子供たちは、台湾の歴史を教えてもらえなかった。中3で台湾の歴史はたった300字であった。台湾の山川の名前知らない子供がこの間育っていった。また、日本の植民地統治についても但し書きがつきながらも、日本が台湾で経済政策やインフラ整備を行ったことを評価しているものである。
1999年 李登輝は『台湾の主張』を著し、台湾の台湾人化を主張した。李登輝が総統になって11年目のことである。『台湾の主張』は、筆者が今夏クアラルンプール国際空港の書店に立ち寄った際は、中国語版も英語版も一番目に付くキャッシャーのカウンターに並べられてあった。このなかで李登輝は中国に対して「大中華主義」を放棄し、中国を台湾、チベット、新彊、モンゴル、東北などの7つのブロックに分け、各地をその特性にもとづいて発展、競争させ、それによって安定を維持すべきだと提案し、論議をよんだ。
理想的なことを言えば、台湾は台湾でアイデンティティを確立し、チベットはチベットで、新彊は新彊で、モンゴルはモンゴルで、東北は東北で自己の存在を確立すれば、むしろアジアは安定する。中国は広大な大中華から脱して、七つくらいの地域に分かれて互いに競争した方がよい。
(李登輝、1999、186-187)
1999年7月、李登輝は、両岸関係を「特殊な国と国との関係」と位置づけ、台湾・中国「二国論」を展開した。
11 台湾人でよかった喜びの創造へ
1999年5月19日、李登輝は、『台湾の主張』の出版記念パーティの席で、次のように述べた。
私は「台湾人に生まれた悲哀」を語り、広い論議を引き起こしました。しかし今日、私は確実に「悲哀の歴史の中にありながら、同時に今日の幸福を育んできた」と感じています。しかも私としても、この「幸福」は私一人だけのものではなく、それはこの土地のすべての国民のものであると感ずるのです。
(『週刊台湾通信』990527)
李モーゼは、「台湾人に生まれた悲哀」を「台湾人でよかった喜び」にするために、台湾人を新天地に導こうとしている。李登輝はこの10数年の急速な構造変化を「静かな革命」とよぶ。「静かな革命」は、民主化、現実外交、両岸関係の展開、経済のグレードアップの4分野からなっている。かつては、経済の発展が何よりの課題であったが、今後は政治のウエイトがますます高くなっていく。
次代を担う台湾人が、李登輝の示した4分野にどう対処していくかで台湾のみならず、アジア、世界の未来が大きく左右されるものと思われる。また、日本側から見れば、このように大きく躍進しつつある台湾を理解することが、複雑混迷の世界を理解するカギであり、ひいては日本にとっては日本の安全と平和のカギでもあろう。
注
1) 本稿は、1998年度東京国際大学共同研究の一部をなすものです。前稿は、「マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー その現状と展開 」『東京国際大学論叢 人間社会学部編』第4号、1998です。次稿は、「台湾のメディア その現状と展開」と題し、『東京国際大学応用社会学研究 東京国際大学大学院社会学研究科』第10号、2000に掲載予定です。今回も「マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー その現状と展開 」の「注」で記した方々のお世話になりました。記して、感謝いたします。
2) 1999年9月21日、台湾中部で発生した大地震に対して関係者のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。
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呂文彩『新無敵 國中 本國地理図表全集』台北、翰林出版、1997
地図の説明
中華民国地図(学校教材用)
韓国が朝鮮半島全体を占め、沖縄は日本領になっていない。モンゴルは中華民国領のままである。南沙群島は、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイも領有を主張しているが、中華民国領となっている。また、別のページでは、北京は北平に、首都は南京となっている。
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