Thứ Hai, 6 tháng 8, 2012

千葉と和歌山に共通点 黒潮が結ぶ縁 (更新2015/05/26)

2012/8/7 NK を引用編集


紀国人移住碑。銚子
/出典:http://acmbs.sakura.ne.jp/mite/10houk/10082L.html
東と西に遠く離れた千葉県と和歌山県。
一見、何の関係もなさそうな2つの県だが、意外にも多くの共通点がある。
地図を開くと、海沿いに共通の地名が存在する。
食文化や方言にも類似点が見つかった。
理由を探っていくと、数百年にわたる両県の結びつきが見えてきた。

 千葉と和歌山をつなぐのは海のシルクロードともいわれる黒潮だ。
時代は江戸に遡る。
「当時の紀州は漁労技術の先進地。
イワシを求め、漁民や商人が房総半島の沿岸に移り住んだ」と、元千葉県水産試験場海洋資源研究室長の平本紀久雄さんは解説する。
房総半島はイワシを肥料に加工し、上方や江戸に送る基地になった。

 「勝浦」「白浜」などの地名は故郷をしのんで付けたのか。
県内には「湯浅」「田辺」など、和歌山の地名と同じ名字も目立つ。
ずばり「紀国(きのくに)」さんもいる。
関西由来と思われる方言を使う地域も残る。

 食文化はどうか。
九十九里には魚と米を発酵させる「イワシのくさりずし」が伝わる。
関東には珍しいなれずしだ。
鯨料理なども両県に共通する。
和歌山県出身の料理研究家、奥村彪生(あやお)さんは「人の心身を癒やすのが生まれ育った郷土の料理。
人の移動と共に伝わったのだろう」と見る。
しょうゆやかつお節の製造技術も黒潮に乗って千葉にもたらされた。

銚子には紀州出身者の子孫による「紀国人移住碑」が建つ
縁は今もとぎれない。
銚子市にある「木国(もっこく)会」は江戸時代に銚子に移り住んだ紀州出身者の子孫が集まる親睦団体。
かつて「紀の国」に「木国」の文字を当てたことにちなむ。
明治31年(1898年)の発足から110年以上の歴史を持つ。
今はヤマサ醤油の浜口道雄社長が会長として約200人の会員を束ねる。

 木国会メンバーは毎年5月、妙福寺(銚子市)に顔をそろえる。
「銚子港もと海浜の一僻地(へきち)、今日の繁栄はひとえに我が紀国人の開拓の功」と刻んだ「紀国人移住碑」の前で慰霊祭を開き、自らのルーツを確認する。
戦時中を含め途切れたことのない恒例行事だ。

 老舗旅館「大新」11代目の垣内貴弘常務(42)は若手メンバーの一人。
「ほぼ毎年和歌山県広川町を訪れ、祖先の供養を欠かさない」という。

<もっと知りたい>
○和歌山県湯浅町はしょうゆ発祥の地とされる。
千葉県のしょうゆ醸造も源流は湯浅にある。
和歌山のシェアは1%に満たないが、天然醸造の伝統を守る会社が多い。
10月には銚子で全国醤油(しょうゆ)サミットがあり、湯浅を含む全国の産地が集まる。
○読売文学賞受賞の『コンニャク屋漂流記』は千葉県出身の祖父を持つ星野博美のノンフィクション。祖先が紀州から渡ってきたらしいと突きとめ、和歌山を訪ねる。



★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

和歌山さんぽみちプロジェクト

銚子市の「紀国人移住碑」 先祖の功績称え、子孫の交流も

 前号では、今から350年以上前に千葉県銚子市の外川(とかわ)集落を整備した、和歌山県出身者の崎山治郎右衛門の功績について取り上げた。

 和歌山県からの移住者が多い銚子市では、移住者の子孫らによる交流が盛んで、先祖の功績をたたえる活動が今も積極的に行われている。今週は、銚子市に建つ、移住者の功績をたたえる石碑を紹介したい。

 銚子市の中心部にある妙福寺の境内にそれはある。広い境内の一角に「紀国人移住碑」と刻まれた石碑が建ち、「銚子港もと海浜の一僻地、今日の繁栄はひとえに我が紀国人の開拓の功による」とある。

 石碑を建てたのは和歌山県出身者の子孫らにより結成された「木国(もっこく)会」という親睦団体による。同会は発足から100年以上の歴史を持ち、現在も200人もの会員がいるという。この石碑は明治36年に建てられ、毎年5月、この石碑の前に会員が集まり慰霊祭を開くという。

 同会の会員で、先祖が広川町出身の女性に話を聞くことができた。「ご先祖様のおかげで今の私たち、今の銚子があると思う。子孫が交流し和歌山とのつながりを認識し合い、この歴史を後世に伝えていきたい」

 自らの出身地という縁で集まる県人会とは異なり、先祖が和歌山県出身という和歌山とは少し遠い関係でありながらも、誇りと和歌山への愛着を強く持たれていることが何より感慨深い。
    (次田尚弘/千葉)

新渡戸稲造の人生訓、「人の幸、不幸はその人の心の内にある」(NK2012/5/8)


新渡戸稲造の人生訓 三井住友信託銀行相談役 高橋温

2012/5/8付
日本経済新聞 夕刊
710文字
 新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)博士は岩手県人の誇りである。欧米に日本の精神文化を知らしめた「武士道」ほか多数の著作、青雲の志を顕(あらわ)した「われ太平洋の橋とならん」の言葉、国際連盟事務次長としての国際平和への貢献など、その輝かしい経歴は広く知られている。
 その博士は、人の幸、不幸はその人の心の内にある、と終生言い続けた。博士も順風満帆な人生ではなかったのである。
 札幌農学校教授に任命された翌明治25年に長男を得るが、わずか8日間の命という悲運に見舞われた。アメリカ人の万里夫人の一時帰国なども重なり、研究家内川永一朗氏によれば、「教室の黒板に字も書けないほどの重い神経症にかかり」、明治30年、職を辞して群馬県伊香保、アメリカ、モントレーで約5年間の療養生活を送った。
 しかし、ここからが「転んでもただでは起きぬ」博士の真骨頂(しんこっちょう)である。療養中に日本初の農学博士授与につながる「農業本論」、そして「武士道」を出版。更に後、大正3年に第一高等学校校長を辞して帰郷中、宮古でバスの転落事故に遭遇、重傷を負うが、この入院中にも「一日一言」の想をものしている。
 博士が、たいていの人は必ず逆境に陥る、しかも不意に起こる、と言ったのは自らの体験に他ならない。その人生訓は、私なりの理解として、次のように要約できる。
 境遇の順逆は心がけ一つでいかようにでもなる。逆境にあっても心がけ一つで一条の光明が発見できる。人生の進歩は境遇に対峙して初めて起こるものである。
 東日本大震災は、私たち一人ひとりに様々な境遇をもたらしたが、今年生誕150年を迎え、わが国の歴史に残る巨人の洞察に、今なお学ぶべきことは多い。

五百旗頭真 :国際秩序、「脱日米欧」一段と(NK2012/8/7)


(NK2012/8/7)

無極化する世界(1)国際秩序、「脱日米欧」一段と
熊本県立大学理事長・前防衛大学校長 五百旗頭真
経済調整能力が低下 日本は自力で問題解決を

(1/3ページ)
<ポイント>
○冷戦終結は米欧日3極体制強化もたらさず
○国際機関は想定以上の重大事態に対処困難
○日本は財政とエネルギー対応が将来を左右
 冷戦が終わって二十余年、世界は何と変わったことか。
 米国とソ連の2超大国が対抗しながら世界秩序を担った時代は、遠い昔となった。ソ連は東欧の共産諸国とともに自壊し、自由民主主義と市場経済の国をめざして再出発した。今やロシアは、中国・インド・ブラジルとともに国土広大にして資源豊かな新興大国(G4)の一つと目される。
 一方、冷戦後米国には、自由民主主義と市場経済を広める使命感と同時に、世界を支える重負担から解放されて、平和の配当を楽しみたいという機運もあった。湾岸戦争でサダム・フセインのイラクを懲らした共和党のブッシュ(父)政権は、世界秩序の担い手として行動した。米国の繁栄と平和を優先した民主党のクリントン政権は、IT(情報技術)革命の成功で世界経済の主導権を奪回し、経済と軍事の双方で圧倒的な立場を築いた。
 その結果、1990年代には米国の単極だとの議論も強まった。一方で、民族紛争や宗教紛争がやまない90年代を「無秩序」と断ずる者、逆に緩やかな国際協調システムの存在を強調する者、「多極」を展望する者、「一超多強」とくくる者など、冷戦後の世界に対する見方は多様化した。ハンチントン教授のように、中国文明とイスラム文明が結託して西洋文明に反逆するシナリオを中心に「文明の衝突」を予言する論もあった。
 21世紀の幕開けに突発した「9・11」テロが歴史の流れを変えた。ブッシュ・ジュニアの共和党政権内では武断派のネオコンが優勢となり、アフガニスタンのタリバン政権を打倒しただけでなく、欧州諸国の反対を押して対イラク戦の勝利に突き進んだ。だがイラク統治に苦しみ、傷ついた超大国となった。米国単極論は後退し、中国やインドなどアジアの台頭に取って代わられるとの予想が広がった。
 オバマ民主党政権は傷を癒やす役割を担うが、リーマン・ショックなど経済変調もあり、大幅な軍備縮小を余儀なくされている。逆に経済的な存在感を増し、急速な軍事力拡大を続ける中国との間で、どのような関係を構築するかが、21世紀の世界史にとって焦点となりつつある。
 9・11テロの後、中国はテロとの戦いで米国に協力する道を選んだ。米国のイラク戦争に対し、中国は仏独ロのようにあからさまに反対せず、その直後米国の要請に従って北朝鮮に対する国際会議のホスト役を務め、東アジアの中心国に浮上した。
 冷戦期の国際政治は2極体制であったが、国際経済からみれば、米欧日の3極体制(もしくは主要7カ国=G7=体制)により調整される市場経済であった。トウ小平氏の「改革開放」により、共産国の中国が市場経済に加わった。
 冷戦終結は市場経済の勝利を意味したが、3極体制の強化をもたらさなかった。共通の敵の存在が失われると米欧日協調の焦点もぼやけた。冷戦後の国際経済においては、欧州統合や北米自由貿易協定(NAFTA)、アジア太平洋経済協力会議(APEC)のような経済の地域主義化も進行した。例えば97年の東アジア経済危機に対して、グローバルな観点から3極サミットが力強い対処をすることはなかった。
画像の拡大
 無理からぬところともいえよう。冷戦終結時に、米欧日は世界の国内総生産(GDP)の約7割を占めていた(図参照)。その後二十余年、アジア諸国などの経済大躍進により、G7諸国の比重は下がり、国際経済をリードする力量を低下させた。20カ国・地域(G20)が招集されるゆえんだ。
 では、新興国を加えたG20ならば国際経済を管理もしくは調整できるのか。一般に構成員の数が増えるほど合意は難しくなる。中国やインドは大躍進を遂げたが、国内に課題が山積しており、世界秩序を支える用意は十分ではない。各国は自己主張するのに忙しく、特に新興国は国際秩序のために妥協することや不利益を避けようとする。
 リーマン・ショック後、中国が大胆な内需振興により、自国の高成長を維持するとともに、国際経済を下支えしたのは立派であった。だが、今や中国をはじめアジア諸国も成長鈍化の局面を迎えている。
 世界には世界貿易機関(WTO)、国際通貨基金(IMF)、世界銀行など国際経済システムを支える機関が存在する。それらが想定する以上の危機や重大事態が突発するとき、対処すべきは関係各国以外にない。G7が後退し、G20が責任感を身につけない状況では、効果的な対処は困難を極めるであろう。
 ギリシャは小さな経済であり、欧州連合(EU)という国際的ケアの最も手厚い欧州に属する。それでもギリシャ危機の国際インパクトはかくも大きかった。日本はその教訓をかみしめてしかるべきだ。
 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を誇った80年代の後、「失われた20年」を経て、今日の日本の国際競争力は著しく低下した。日本社会はどの地方も豊かで美しく、国際的な調査でも日本への好感度は(中国と韓国以外では)トップクラスだ。少子高齢化が進む中で、一定の生活水準と文化水準を維持すれば、国際競争力がトップクラスでなくとも、内向きであっても、ゆったりすればよいではないか。そう考える人も少なくあるまい。だが競争が現実である国際経済の中で、それからのリタイアと厳しい努力の停止がとめどない転落への危険を宿していることを知るべきだ。
 以下では、経済面の安全保障について述べたい。問題は2つある。一つは、国家財政と金融の破綻である。要するに、日本のギリシャ化の危険である。ギリシャの国家財政赤字がGDP比140%であるのに対し、日本は200%を超える。今のところ高水準の民間貯蓄ゆえに国際投機筋の餌食にならずに済んでいるが、もし毎年40兆円もの赤字国債を積み上げれば、10年以内に間違いなく破綻を招くであろう。ギリシャと異なり、世界第3位の経済的巨人が倒れるとき、これを救済できる機関や国は存在しない。
 日本は自分で立ち直るほかはないのである。その意味で、野田民主党政権と自民・公明両党が消費税率10%への引き上げに合意したことを高く評価する。十分ではないが、それができなければ日本国民は奈落に転落していただろう。
 もう一つは、エネルギー問題だ。原発の恐ろしさを再認識した日本人は今、原発の原理的否定に傾斜している。中長期的には脱原発を模索することは望ましいし、再生可能エネルギーなど代替資源の開発に全力を挙げることは正しい。しかし代替案なしに原発廃棄に踏み込む国は、世界に一つも存在しない。米国はシェールオイル(岩盤層に含まれる石油)の開発にめどをつけた。脱原発を決めたドイツは欧州内の周辺国から電力供給が得られる。多くの工業発展国は今なお原発建設をエネルギー政策の柱としている。
 こうした中で、エネルギー安全保障を誤れば、経済発展はおろか、国民生活の存立すら危うくなる。日本人は実感主義と感情で全否定に直進するのではなく、代替案が得られるまで、原発の安全性を高める努力に軸を置く冷静さを保つべきであろう。1941年の石油危機では日本は対米戦争に突入し、73年の石油危機で社会的パニックを起こした。原発全廃に走り、次の石油危機で逆戻りするような日本であってほしくない。
 いおきべ・まこと 43年生まれ。京都大法卒、法学博士。専門は日本政治外交史



青森、岩手に分断された南部藩


大きな地図で見る

新渡戸稲造の父は、南部藩主の命で青森県十和田湖の新田開発に打ち込みました。
青森県十和田湖も、岩手県盛岡市ももとは同じ南部藩でした。

南部藩が青森と岩手に分断されたのは、幕末の奥羽越列藩同盟(おううえつ れっぱんどうめい)に起因します。

南部藩は青森県、岩手県に分断
◇                    ◆                    ◇

幕末、長州は会津から痛い目にあわされました。

幕府の命令で京都の治安を担当した会津藩にねらわれ、1864年の蛤御門の戦いでは京から追い出されました。
会津藩配下の新撰組にもつけねらわれました。

1868年、体制が変わり、維新政府は東北諸藩に会津征討を命じました。
東北諸藩は会津を救うために嘆願書を出しました。

しかし却下されたので、東北25藩と長岡藩など6藩は奥羽越列藩同盟を結成し闘いましたが、破れました。

のちに仙台藩と山形の米沢藩は戦いが不利と見るや、列藩の主導者でしたが、降伏しました。

南部藩は仙台・伊達藩への義理で加盟しただけなのに、会津藩と共に最大の被害者に仕立て上げられ、貧窮の道を歩まされました。

この戊辰戦争で会津を破った長州人は傲岸にも「白河以北、一山百文」と言い放ちました。

明治政府はトーホクを無視し続けました。

トーホクを飛び越えて北海道開拓に意欲を燃やしました。
トーホクを無視し朝鮮経営に乗り出しました。
さらに日本のトーホクではなく中国の東北の経営に乗り出しました。

政府がトーホクのためにしたことは、東北大学をつくっただけでした。
<*  原敬は、トーホクを侮蔑嘲笑した薩長出身者への反発から号を「一山」と称しました。
設立が絶望的だった東北大学が日の目を見たのは、内務大臣だった原敬の尽力によるものでした。 >

南部藩は青森県と岩手県に、伊達藩は宮城県と岩手県に分断されました。
<*  南部藩は盛岡県になるはずでした。>

このいやがらせのために、岩手県は南部藩と伊達藩の両方をかかえ込み、今に至るも分断政治の犠牲になっています。

南部藩域と伊達藩域は歴史文化ことばの面でほぼ異国状態です。

南部藩のもてなし料理は蕎麦、お茶うけはセンベイで人は朴訥(ぼくとつ)です。

伊達藩は餅でもてなし、羊羹をお茶うけにし、人は大風呂敷といわれています。

政府が青森、山形、新潟を通る日本海新幹線をつくらないのも、日本海高速道路をつくらないのも、奥羽越列藩同盟へのうらみによるものと思う地元民はおおいようです。
<* 太平洋側の新幹線は北海道への通過経路として建設されました。>

青森県の八戸市、十和田市を含む南部地域ではいまだに新聞、テレビなど岩手(南部藩)ものを好みます。

新渡戸稲造:『武士道』をあらわした代表的国際人

Chủ Nhật, 5 tháng 8, 2012

新渡戸稲造:『武士道』をあらわした代表的国際人→




5千円札の新渡戸稲造

→  http://kuwabara03.blogspot.jp/2012/08/blog-post_969.html

ソーシャル・ビジネスのページ


ムハマド・ユヌス: ソーシャルビジネスは高齢化対策にも有効(NK2012/7/25)

  • 資金源が自らの事業である為、より柔軟でスピーディーな事業展開が可能
  • 自社の利潤の最大化ではなく、使命の達成を最優先


ソーシャル・ビジネス(社会的起業) ウィキペディア

NPOのページ

小沢一郎:不信と服従の心理学

小沢一郎という人生   (NK2012/8/6)
不信と服従の心理学 論説委員長 芹川洋一

 やはり稀(まれ)な政治家である。「国民の生活が第一」を旗あげした小沢一郎代表のことだ。なんど政党を壊しては創ってきたことか。いったい破壊者なのか、創造者なのか。
画像の拡大
 集まり散じて人が変わるのは世の常とはいえ、側近が信頼を失い、いつの間にか離れていく。一方でチルドレンやガールズといった新たな信奉者があらわれてくる。拒絶と服従が交錯する人間模様がそこにある。
 小沢政治の基本は「政治は数、数は力」である。権力をにぎるのが目的のようにみえる。ただ、権力闘争に理念や政策のはっぴをまとうのも忘れない。その深層には何があるのか。小沢一郎という人生を考える。
 政治社会学の栗原彬・立教大名誉教授の分析手法を借りながら、2本の補助線を引いてみる。(1)個人のパーソナリティーがどのように形成されていったかが、政治家になってからの行動を左右する(2)個人的な生活史の中から政治スタイルができあがっていく――という生い立ちの曲線だ。
 栗原氏によると、パーソナリティーの形成で、まず影響を及ぼすのは母親である。濃密な母子関係が、そとの世界との信頼感につながる。母性の欠落は他者への不信感となりやすい。
 次に出てくるのが父親との関係だ。父との接触を通じ、自らを律する能力を学ぶ。父親不在は、わがままで自分の感情を抑える能力に欠け、同時に、父親にいい子であろうとする服従の様式をうえつけやすい、という。
 小田甫著『小沢一郎・全人像』によると、父・佐重喜氏は岩手県水沢市(現・奥州市)の出身で、苦学して日大夜間部を卒業し、25歳で弁護士になった。東京市議、府議を経て、1946年、故郷から出馬、衆院議員に初当選する。
 42年、東京・下谷で長男として生まれた一郎氏は45年、水沢に疎開する。国会議員になると、父は東京に住むようになり、離ればなれの生活がつづく。
 母・みちさんも「東京との往復で、共に過ごす日は少なかった」と『全人像』が指摘するように、母子ともに寂しいものがあったにちがいない。
 自著『語る』で「おやじは昔ながらの男で、女房なんか構わない方だった。そのうえ女房に選挙運動までさせた。だから……母親に対する同情という気持ちがものすごく強くて、母の死は余計に悲しかった」と述べているくだりがある。
 父の選挙のために母をとられてしまった子どもの切ない思いが伝わってくる。しばしば垣間みえる小沢氏の他者への不信感には、満たされなかった母性が影響していないかどうか。
 父親については「幼児期、少年期に他の友達のような父との生活の思い出はほとんどない」と追想しているほどで、父性の欠落がみてとれる。
 再び『全人像』によると、中学進学で水沢小から東京教育大(現・筑波大)付属中を受験して失敗、中学3年で東京・文京区立6中に転校し都立小石川高に進学、大学入試で東大、京大を受験し失敗、慶応から日大大学院に入学して司法試験に挑戦……というコースには、自分のような苦労をさせたくない父親の思いがにじんでくるようだ。
 それはまた、父の期待にこたえようとする、けなげな息子の姿も映す。他者に自らへの服従を求める根っこはここにあるのだろう。
 そして第2の父があらわれ、政治スタイルを学んでいく。「おやじ」と呼んだ田中角栄元首相である。
 司法試験の途中で父親が亡くなり、田中幹事長(当時)の門をたたく。実社会の経験がないまま、総選挙に出馬し27歳で初当選。「田中の秘蔵っ子」として、政界エリートになる。
 組織のモデルは「一致団結箱弁当」と鉄の結束を誇った田中派である。二重権力で裏から支配する得意のリーダーシップも、闇将軍といわれた元首相ゆずりだ。選挙至上主義も、数の論理もそうだ。
 次をつくらないところも田中モデルである。「彼(元首相)の欠点は、どうしても後継者をつくろうとしなかったことだね」(『語る』)と評しているが、それは自らに、はねかえる言葉である。進言したり、忠告したりした人間を遠ざけるのは、自らの地位を脅かしかねない存在への拒否反応といえる。
 政治手法で忘れてはならないのが、権力闘争を生き延びるための先手戦略である。自民党竹下派の分裂からはじまって、新生党、新進党、自由党、民主党との合併と、みなそうである。生き残りに先手を打とうとする意識の底には、91年に心臓病で倒れたことがあるのかもしれない。
 構想に先見性があったのも事実だ。小泉純一郎首相の構造改革は、もともと小沢氏が『日本改造計画』でかかげた改革の旗だった。2007年の参院選後の自民党との大連立構想も、思えば今回の民主・自民・公明の3党合意の枠組みだ。
 では、反消費増税などアンチの旗をかかげたこんどの新党に、先見性はあるだろうか。
 不信と服従の様式を持つパーソナリティーのうえに、政治の父のスタイルが乗った特異な政治家。この20年、良くも悪くも日本政治を動かしてきた。現在70歳。裁判もつづく。
 人生70古来稀なり。残された時間はそう長くない。